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たぬきの寝言@


一銭てんぷらの話 三原浅次郎

 小学校六年生の時、家に帰ると突然、母親に叱られた。
 「お前は上の学校へ行く気はないのか、なんで予習勉強をせんのや」と。
 予習勉強とは当時中学校または商業学校へ入学する為、放課後、特別に勉強する事で、当時イ組五十人位の内、せいぜい十五人位が予習勉強をしていた。残念乍ら私の家は年中ピーピーで親のフトコロが分っていたので、小学校を終えたら何処かボンサンに行かねばならぬ、と覚悟をしていたのである。
 しかし母親の一言で吃驚した。母親はどんなことがあっても私を上の学校へやるつもりらしい。天にも昇る心境とはこの事をいう。
 爾来、私の勉強ぶりが違ってきた。第二学期には素晴らしい進展である。今以上に相当入試もむつかしかったが、この分ならまあまあパスをする処まで成績も良くなった。
 さて、問題は入学後の学資である。小学校と違って費用も今迄通りには行かない。
 母親と色々相談の上、大した事は出来ないので、家の軒先で一銭テンプラを揚げて売る事にし、なべ・かまど・台・油・小さな陳列台(今から思うと、大した事はないが当時の吾々にとってはかなりの元入れである)を準備した。
 朝五時に起きて、天満の市場へ買出しに行った。
 芋・牛蒡・蓮根・三つ葉・いろいろ。小さな小僧が自転車に一杯積んでフラフラしながら家に帰った。
 今から考えて見ると、市場の人達は皆親切で少量宛しか買わない、また資金の都合で買えない私に、邪魔くさがらないで卸価格で売ってくれた。遅まき乍ら此処でついでにお礼を申し上げる。
 買って来た材料を母に渡して私は学校へ行く。放課後、午後三時頃家に帰ると、母が色々の材料を揚げて一銭に売れる様に切り揃えてくれている。かまどにコークスをおこし、油を入れた大なべをかけて、こね廻したメリケン粉を傍(かたわら)に置き、さて母親と向かいあわせになってテンプラの生産開始である。
 日によって、てる日くもる日の繰りかえし。午後六時頃、売上げ如何によって悲喜こもごもである。
 思い出した。思い出した。十軒ばかり筋向いにメッキ工場があった。工員さんが三十人位いて、そこの奥さんが午後四時頃、家から外へ出られた時が私達の勝負どころである。
 左へ折れて公設市場の方へ行かれたら駄目、右へ向いて来られた時には私達二人はワクワク。
 この奥さんから工員さん達のお惣菜にテンプラを買って頂くと大体二円位、数にして二〇〇個買って頂ける訳、売上げに大いに影響ありである。
 来た来た二円が来た。福の神のお越しである。ありがたい。ありがたい。今日は十個位をおまけに余分につけよう・・・と思った途端に“当て事と何やらは向うからはずれる”という俗語の通り、私の家を通り過ぎて五軒先の魚屋さんへ、である。
 あァあァ、万事窮す・・・という様な毎日毎日を繰り返し乍らも、商業学校をどうにか出る事が出来た。実に母のお陰である。
   そして、ついでに知らず知らずに商売のありがたさと素晴らしさを知る事が出来たという、お粗末なお話。
 
 (昭和53年8月29日)
 
 




私のお葬式 三原浅次郎

 おかしな夢を見るものである。こんな夢を見た。
 
 私の葬式の夢であり、その指揮を私がとっているのである。死んだ当日とその翌日は自宅にいて、三日目に本葬をする事。お寺など淋しい処に本体を移さないで、本社の一階・二階を使って葬儀場とする事。私の魂はこの会社に残っているのだから、絶対、これは守ってほしい。君達には、それがために不便をかける。また、ご近所へ迷惑を掛けることになっても、赦(ゆる)してもらって遂行してほしい。それから本葬当日は、仕事は休ましてもらうが、その前日二日はお得意様の迷惑にならぬよう、商いを休まないでやる事など、色色の注文をつけている夢である。
 私が平素、希望している事かも知れない。
 さて、葬式は順を追って運ばれていく。弔問客がそろそろ来て戴く。その中には忘れておった人、会いたい人、会いたくない人、色々の方に来て戴いている。不思議なことに、すでに私より先に死んでいる人も来てくれて、お悔やみを戴いている。
 毀誉褒貶(きよほうへん)。褒めて戴く方もあり、恨み事を言う方もある。また、私を理解しないで曲解している方があるので、言い訳をしたくとも、それはできない。ええい、ままよ、死んでいるんだからどうでもよいじゃないか。と捨て鉢気分にもなる。とにかく、仲々騒々しい。
 大体、葬式は陰(いん)のはずが、この場は至って陽である。家内のけたたましい声も相変わらずで、私自身も死んだことを忘れて何かのお祝いのような気持ちである。
 さて、お供えや、香典である。思いなしか、私は生前、香典を戴くことに賛成で、それで葬式をさせてもらう、つまり皆様のお陰でこの式典ができる。
 昔、小さい時に、路地の長屋に住んでいた時、この近所で葬式があると、父や近所の人達がまず香典集めに走り廻っていたのを覚えている。そしてやっと葬式をすまし、同病相哀れむ長屋の住民一同、ほっとしたことが、小さいながらも脳裡から離れない。すなわち、その家だけの葬式でなく、近隣知己一同の葬式だったのである。
 さて、私の葬式の香典の額である。ほかの人には見えないように、そっと覗いて見た。色々である。少ない人も多い人もある。少ないというのは金額のことではなく、その人らしくない金額であり、多いというのもその人らしくない、申し訳ない言い方だが、身分不相応な金額のことである。多い人には、君はちょっと多すぎると言って返してあげ、少ない人には、君にすれば少なすぎるのと違うかと注意してあげたいと、お節介の心がわいてくる。
 しかし、現世の人と幽明異にしているので、もどかしい気持ちだが何ともいたしかたがない。全くおかしな夢を見る私が悪いので、死んだあともアレコレ指図されては端の人もたまるまい。ここは一番、見守るだけのことにしよう。
 さて、一番心にかかるのは、私の葬式に本当に心からお参りしてくれる人が何人あるかであるが、こんな事を考えるのは誠に胴慾(どうよく)な話で、一日も早く私のことなど忘れて平素の生活に戻ってくれれば、私もこの世とおさらばができ、成仏できるような気がする。
  チーン、南無阿弥陀仏。
  チーン、南無阿弥陀仏。
 
 (平成元年8月30日)
 
 




生意気 三原浅次郎

 このごろ、目につくのは若者の鼻持ちならぬ生意気さである。全部とは言わない、一部の若者ではあるが、むかむかしてくる。くちばしの青いくせに、いっかど物事をしったかぶりで、親のお陰でどうにかなったくせに、そのことを忘れ、苦労しらずが、いっぱしのことをぬかす。誠に腹が立つ。年輩者を尊敬することも忘れ、黙殺する。
 恐れを知らぬようで誠に立派めくが、なになに、只その恐ろしい経験を持たぬだけ。「盲、蛇に怖(お)じず」の例の通り、知らないからやれるだけの事。
 こんな手合いは、一度恐ろしい事に出合うと、たいした事でなくても、へなへなと坐りこんでしまい、頭をかかえて顔もあげられない。ざまあ見ろである。
 私の孫の中にも、こんなのがいるかも知れない――と、ここまで書いて、勝手な事を言っている私が、フト気がついた。ああ、なんじゃい。五十数年前の私のことではないか、と気がついた。まさしく私のことである。今、思い出しても、当時の今どころではなく、今にして思えば、紛々(ふんぷん)と悪臭の漂うがごとくであった。
 当時は貧しかった。世間も不況であった。中等商業学校を卒業しても、仲々就職先がなく、幸運な勤め先が決まった友達を羨んだものである。
 卒業して、三ヵ月目、学校の先生のお世話で、やっと職につけた。住込みで月給二十円、まずまずである。入店が一年おくれるごとに五円づつ減り、三年後に入店した人は月給五円となった時代である。
 よく働いた。これは間違いない。お店でも、主人や奥様の評判はよかった。しかし、同僚や番頭さんの受けは余りよくないようであった。それは生意気であったからである。冒頭に書いてあることがそっくりの若者であったからだ。
 多少要領がよく、主人や奥さんには、その生意気さをセーブしていたせいか、またはご両人、先刻ご承知で、ただよく働くのに免じて、大目に見て戴いたのかも知れない。
 入店して三ヵ月、背広が買えなかったが、兄が洋服屋をしている学校時代の友人に頼みこんで、背広とオーバー二種類を六十円、月賦で十円宛六回払いにしてもらった。
 当時、首つりといって、既製服もあって、私たちのような種類はこの既製服を身体に合わせて買ったもんである。が、私はそれをやらなかった。
 “オーダーメイド”である。首つり服は着ない、註文して作らせたものを着るのである。誠に生意気な若者である。
 さて、靴もそのとおり、近所の昔からやっている靴屋さんで註文し、あまりキッチリしているので、足が痛かっても無理してはいた記憶がある。つまり、申し上げたとおり。
 だから、今の青年諸君を、年寄りが一方的に、生意気だと極めつけるのもどうか、である。生意気でもよし、気障でも若者だから、ある程度のことは許される。物事が判りもせぬのに判ったふりをするより、判らねば判らぬまま知らない強さで生意気なのもよい。
 しかし、何時(いつ)までも生意気では通らない。早々それを卒業して、本当の自分になってほしい。
 問題は、何時それに気がつくかである。考えてみれば、誰でも通る道であり、現在、私の孫がその道を通っている。そしてそれに自分を重ねて、むしろその生意気さがなつかしい。まったく面白いもんである。
 今では若者の生意気を肯定して、それもよいのではないかと思っている。無気力よりも、生意気で、やる気のある奴の方が、将来見どころがある。とにかく、若い時はいろいろやるもんだ。
 自分でつき当り、失敗し、後悔し、泣いてみたり、笑ってみたり、恋をしたり、失恋したり、仲々もって忙しい人生を送りたまえ。
 
 (昭和63年9月28日)
 
   




社名の起源 三原浅次郎

 昭和二十一年三月、廃虚の都大阪の片隅で、洋電社が呱々の声をあげました。
 社名を色々考えた末、天災地変や戦火など地上の相貌一変するとしても、地球上の過半を占める海洋は、少しの痕跡をとどめることなく悠々とその姿を横たえております。
 洋々として尽きることのないこの海洋は、人間の生活上、重要な資源を産み出し、未来永劫変わるものではありません。
 この逞しい海洋に魅了され肖(あや)かるようにと、『洋』をとり『電』をからませて社名とし、爾来三十有余年の星霜を、真の商道をふりかざし、只一筋にと邁進致しております。
 この三十有余年、洋電社の盛衰こもごもなれど、真の商道見失わず、百万人と雖(いえど)も吾行かんの気概を以(もっ)て、社員一同、社訓貢献五つの質問に答えるべく、進んで参る所存でございます。
 
   社 訓  貢献五つの質問
 
    一、あなたは社会に貢献していますか。
    一、あなたは会社に貢献していますか。
    一、あなたは家庭に貢献していますか。
    一、あなたは友人に貢献していますか。
    一、あなたは自分に貢献していますか。
 
 (昭和59年12月18日)